吉利駅

日置駅を過ぎると線路は右にカーブして国道270号線を潜って海側(の近く)を走るようになります。とは言っても車窓から海見えるとうわけではないものですが…

下の写真2枚はその名残で、盛土のところに線路があったところです。よく見ると、枕木や小さな橋がそのままで残っているところもあります。

日置駅から吉利駅方面に向かう線路跡。枕木が残っている。
中程の土手に線路があった。この先国道270号を潜って海側に抜けたみたい。

国道270号線吉利交差点から少し南の方へ走らせたところ(自動車屋さんのちょっと先)の海側に吉利駅跡はあります。このあたりの道路をちょくちょく走ることがあるのですが、微妙に国道から離れているので駅を探そうとして走らせてもいつの間にか通り過ぎてしまっていることすらあるくらいですね。

その代わり、駅跡を見つけられたらホーム跡は綺麗に整備されているのでじっくりと見学することできます。

吉利駅跡。今立っている場所が最後までホームがあったところ。

駅が現役の頃でも日本家屋みたいな木造の駅舎が立っていたうえに、ホーム自体も草木で覆われていたそうなので今の方がすっきりして見やすくなっているのかもしれません(笑)

線形かま見て上の写真のところに旅客ホームが、中程の写真のところに貨物のホームが、下の左手のところにかつての対面式ホームがあったのかと思われます。

吉利駅跡。こちらのホームは貨物用だったのかもしれない。
昔は2面2線の対面式ホームであった。この写真の両サイドにホームがあったと思われるが、晩年列車交換の施設は撤去されて1面のみ使用されていた。

駅のあった場所はこちらの地図を参考にしてください。地図を見ると、吉利の集落というか町並みから微妙に離れているような立地ではなかったかと思われます。吉利の名所園林寺跡(後日紹介予定)や鬼丸神社(日置のお祭りせっぺとべ八幡神社版参考)からも離れているといえば離れている印象があります。このことについては南隣にある永吉駅や北、南多布施駅あたりにもいえて住宅があるところから駅まで距離があるとなるとちょっと使いづらいのかなとも思ってしまいます。昔の鉄道の歴史について調べれがヒントがあるかもしれませんね。

日置駅跡

前記事の上日置駅から坂を下ると開けた田園地帯に入ります。

そこを南薩線の線路が駆け抜けていました。

旧日吉町の日置地区を俯瞰的に見た物。平地にところに役場や駅があった。

下の写真、水田横の道路になっているところに線路があったと思われます。

水田の中を線路が通る。

水田ばっかり言葉が出ておりますが(笑)、ここを過ぎるとちょっとした町並みというか商店街というか住宅地が見えてきます。そこにかつての日置駅が存在していました。

この道路は間違いなく線路跡であろう。まもなく日置駅に到着。

駅舎跡やそれっぽい建物もなかなか見当たらないので(本当はとある宅地の中に小さな給水塔があります)表現的には難しいのですが、下の写真のあたりが日置駅の駅前に相当し、道路右手中央に右に行く細い道があるのですが、ここが駅の入り口に、その道の奥手に駅があったのではないかと推察するしかないです。南薩線の他の駅は大概駅の場所はわかるように何かしらの看板があるのですが、日置駅と南吹上浜駅のあった場所は確定するのは難しいかもしれないです。

ただ、このあたりに日置駅があったという証拠の一つとして、鹿児島交通バスの伊集院〜加世田〜枕崎行きなんてつ号は日置の県道をずっとまっすぐ走る(走った方が効率的には良さそうです)のではなく、この集落内にある八幡バス停にわざわざ立ち寄る便があります。下の写真にも右の中程にバス停らしきものが写っているのでこれが八幡バス停だったと思います。

ちなみに、なぜ八幡なのかと言うと、ここの近くにせっぺとべというお祭りで有名な日置八幡神社があるからです。

この辺りがかつての日置駅前に相当する。

日置駅は南薩線の中でも伊作や加世田と並んで利用客は多かったそうです。日置止まりも列車の設定もありました。また、日置にもユースホステルがあったそうで昔はここで宿泊もできたそうです(吹上浜ユースホステル、今は事実上閉館中)。

あと、非常に個人的な話ですが、日置といえば今は市町村合併により日置市(伊集院、日吉、東市来、吹上)全体を表しますが、個人的には日置駅周辺もしくは日置市日吉町日置のどちらかのイメージがあって他の人に比べては日置の範囲を狭く捉える傾向があるかもしれません(とはいえ日吉町日置の範囲もかなり広いので番地間違えたら非常に大変なことになります。笑)

日置駅を過ぎると隣の吉利駅に向かって線路跡が伸びていました。

続く。

日置駅から吉利駅に向かっては線路跡や枕木が残っていた。

上日置

昭和50年代まで鹿児島県内にも私鉄の普通鉄道が存在していたのはご存知でしょうか?

その名は鹿児島交通南薩線、もしくは南薩鉄道といい鹿児島本線の伊集院駅〜加世田駅〜枕崎駅(指宿枕崎線と接続)を結んでいました。1983年に豪雨のため当駅〜日置駅間が運用休止、翌年廃線となった路線です。

今回から不定期になりますがこの鉄道について追っていきたいと思います。

伊集院駅の象徴である島津義弘公像。中村晋也先生作。
鹿児島中央駅前にある若き薩摩の群像も手掛けられている。

南薩線が廃止されても現在の駅舎ができるまで・駅周辺が整備される前までは南薩線用のホームが残っており、ホーム跡は駐車場として使われていました。(その様子がナニコレ珍百景にも紹介されたそうです。鹿児島駅にも同じような使われ方をしていた元ホームがありましたが…)

伊集院駅を出発すると左の方にカーブし、下の写真のように橋で県道を越えていました。この橋の左手に大田トンネルがありますが、豪雨災害による漏水のため晩年当駅から日置駅までは回送扱いで走っていた(乗客はバス代行で対応していた)そうです。

大田地区は水が良いのかそうめん流しやカフェ、水力発電所があります。確かにこの橋のそばにあるカフェのコーヒーは美味しかったです。

県道24号線の伊集院から美山方面に向かう途中にある南薩線のコンクリート橋跡。

ここからが今回のメインになる上日置駅跡について触れていきます。

南薩線上日置駅。1916年この地区に毘沙門地区にちなんで毘沙門駅として開業、1934年上日置駅に改名されました。

場所的には伊集院駅と旧日吉町の中心である日置駅の中間にはあたるのですが、駅の周辺に集落はなく県道から少し離れた山の途中にある印象です。小学校のある住吉地区もここから少し日置寄りの線路沿いにあるのですが当駅は住宅地ではなく、(繰り返しますが)日置から伊集院にかけての長い登り坂の途中にありました。

上日置駅を伊集院駅側から全体像を。対面式ホームではあったが高低差が見られる。
まっすぐ進むと日置駅に向かう。六角精児さんも当駅を訪れたことがあってどこかにサインがあるそうだ。

この写真を見るとわかるかもしれないのですが、奥に行くにしたがって手前側のホーム(本線)は坂を下っています。一方、向かい側のホームは坂を下らず平になっていて行き止まりとなっています。

ということは日置駅から坂を登ってきた列車は一旦手前側のホームを通り過ぎてからポイント切り替え後バックして奥のホームに入線していたということになります。

すなわち、当駅はスイッチバック駅だったということです。現存する駅で例えるなら四国にある坪尻駅の形が近いかもしれません。

かつては鹿児島県内には先日紹介した薩摩永野駅と当駅、そして昔の鹿屋駅と3つのスイッチバック駅があったということになります。(いずれも廃線のため廃駅となっています)

上日置駅の給水塔。石積みで立派な造りである。

南薩鉄道では開業時より蒸気機関車での運用があったため、このような石造りの給水塔が設けられいる駅がありました。当駅はその一つに挙げられます。隣の日置駅にも給水塔はあったのですが、途中から水の出が悪くなったようで水の出の良い当駅を給水ポイントとしてよく使っていたようです。

駅のホームあたりからの眺め。隣のホームに比べ勾配があることがよくわかる。

こうしてみると当駅は急勾配の途中にあることがわかります。おそらく、昔の機関車では出力がなくて坂を登り切ることができず、途中で休憩を挟む必要があったのでしょう。

別の角度から、こう見ても勾配はきつい。

ディーゼル列車の登場後、1971年には列車交換が不要になり無人駅になったのを機会に上り線のホームは使われなくなりました。その後、1984年に駅は廃線のため廃止となり長い間草叢の中に埋もれていましたが、2014年南薩線100周年記念展に合わせて整備を行った結果30年ぶりにこの駅の姿が現れたそうです。そして、今でも整備された姿を見学することができます。

話逸れて時間を遡りますが、1945年3月18日、当時の日置村でも米軍の空襲があり上日置駅に停車中の列車にも機銃掃射があったそうです。3名死亡、その他多くの負傷者が出たそうです。そのころ私の父方の家族はこのあたりに住んでいたので(他人事ではない)よく生き残れた、(しかも私の祖父はその年に長崎の工場に学徒動員されていて原爆に遭っています)今私が生かされているのは有難いという思いがあります。

上日置駅駅名標。南薩線の駅名標は力強い手書きの書体が非常に渋い。

長々となりましたが、南薩線の駅名標も。

国鉄の駅名標にはない手書きの独特な字体が非常に力強くて面白いです。

最後に、ここには道路を超えるように鉄橋がありました。鉄橋を超えると高度を下げながら日置の町に向かうのでありました。(駅から離れて日置寄りになりますが、この辺りには小学校や住宅地もあります。)

私が幼少のころここに南薩線の鉄橋があったが、今は撤去されている。
ちょうど山裾を線路が通っていたと記憶している。

宮之城駅

薩摩鶴田駅から宮之城方面には線路跡が車道に転用されています。この道路を走り続けると薩摩湯田駅、佐志駅跡を通過することができます。今回、両駅の写真がないので簡単な説明になります。

薩摩湯田駅は旧宮之城町と旧鶴田町との境界に近いところまたは宮之城温泉の最寄駅(温泉街まで1Kmくらい)と言ってもいいかもしれません。駅跡の記念碑と車輪が置いてあるそうですが気づかなかったです。

佐志駅跡は比較的わかりやすい所にあります。国道504号の田原交差点の地区になり、駅舎自体は元々なくプラットホームと駅名標の形をした案内板が設置されています。

ここからは宮之城線の線名にもなっている宮之城駅について。宮之城駅は1926年開業、最初は当駅が終点でしたが1934年薩摩鶴田駅が開業した後は途中駅となりました。1937年、薩摩大口駅まで全通しました。しかしながら利用客の減少により1987年廃止となりました。こちらのページも参考にしてください。

宮之城線ではガソリンカーの使用や(機関車ではなく)気動車が貨車を引っ張る混合列車の運用があったそうです。「宮之城線 混合列車」で画素を検索すれば出てくるようです。

宮之城鉄道記念館

上の写真は宮之城駅跡にできた記念館の建物です。時間の都合により建物内には入らなかったのですが観光案内所、バスのターミナルなどになっているそうです。駅廃止後も入来、鹿児島市や大口、出水、空港、川内方面など各方面に向かうバスの発着場となっており交通の要所となっています。また、温泉(宮之城温泉や紫尾温泉)や竹も有名ですが、個人的にはお菓子屋さんも多いなとも思いました。

鉄道設備の跡

こちらは駅跡に残された鉄道設備になります。腕木式信号機やてこ、踏切、蒸気機関車C57の頭部が保存されています。

宮之城線の駅には他にも樋脇、上樋脇、入来駅など駅跡が残っている所もあるのでいずれ訪ねてみたいと思っています。記録が撮れたらまた載せる予定です。とりあえず宮之城線跡巡り(第1部)はここまで。

薩摩鶴田

宮之城線駅跡を巡る、第3弾は薩摩鶴田駅を訪れてみました。

この駅、実は見つけづらい所にあります。

というのは、薩摩求名駅と違い国道267号線沿いにあると思いきや「鶴田駅入口」というバス停は国道沿いに現存するものの、実際に駅があった所は国道から500mほど奥地(というか西側)の住宅地の中にあるためです。また、地図を縮小して見ればわかると思いますが役場など主要施設のある町並みから離れていることも場所的にわかりにくくなっているかもしれません。これが宮之城線乗客減少の原因のひとつだったのかもしれません。

写真の建物が鶴田鉄道記念館になります。周囲が住宅地になっているので、この建物が集会所じゃないかと勘違いして入るのはためらいましたが、表には車輪と踏切の部品、レール、バラスト、プラットホームらしきものがあり、確かにここに駅があったのだなという軌跡はなんとなくわかります。

鶴田鉄道記念館と車輪
薩摩鶴田駅ホーム跡

こうみるとホームの長さも現役時から短かったのではないかと推察されます。最初からローカル線の駅として作られた駅のホームの長さは列車2両分がデフォルトで見かけるため。山野線の駅や指宿枕崎線末端区間のホーム長も2両分のところが多いです。

ちなみに鶴田町には鶴田ダムという九州最大級のダムがありますが、ダム建設用資材を運ぶための輸送時に当駅は活躍したそうです。

薩摩鶴田駅を無事見つけることができれば、宮之城方面、薩摩山崎駅跡ぐらいまでは線路跡が道路に転用されており、線路跡を車で走ることができるようです。

薩摩求名

さて問題です。この駅名は何と読むでしょうか?

正解は「さつまぐみょう」です。

国鉄宮之城線にあった駅の一つですが、いわゆる難読地名に分類されるでしょう。(参考に千葉県東金市にある求名駅、ここも”ぐみょう”と読みますが難読駅名でよく取り上げられます。徳川家康が鷹狩りに来た際ここは何という所かと聞いた際、家来が「求名と申します」と言ったためにこの名前になったと伝えられています。)

薩摩永野駅において薩摩求名駅の駅名標

求名という言葉自体は仏教(法華経)の登場する人名で、仏の入滅後、妙高菩薩の八百人の弟子の中の一人。名声だけを求めお経をどんなに読んでも覚えられませんでしたが、多くの善根を植えたために多くの仏に会うことができたそうで、後に弥勒(みろく)菩薩となったそうです。ちなみに”みろく”という地名は姶良市加治木町の国道10号線の交差点の名前になったり、弥勒さんという苗字の人も鹿児島県内にいることは確認済みです。(話逸れますが、鹿児島市内に”もびくに坂”というバス停があり昔は大きなお寺があったそうです。)また、さつま町内(薩摩永野駅〜広橋駅)の中間あたりには観音滝公園というのもあるそうです。ただし、東金市の求名と違って、ここの(薩摩)求名の地名の由来についてはよく分かっておりません。

下の写真は薩摩求名駅があったと思われるところで撮ったものです。広橋(旧薩摩町の中心地)方面への線路跡は緑のトンネル状態となっており、中に進むのは躊躇しました。

広橋方面への線路跡か

一方、こちらの写真のあたりに駅があったのではなかろうかと思います。橋の欄干には機関車の動輪が描かれています。また、真ん中に見えるアーチ式の石橋は求名橋と呼ばれており明治37年に掛けられたそうです。

この付近に薩摩求名駅があったと思われるところ。中央に見える橋は求名橋。

当駅跡には鉄道施設や記念館などは残っていませんが、集会施設と線路跡は道路に転用されて微かに痕跡がわかる程度でした。参考に地図を載せておきます。求名駅のバス停があったと思います。

永野金山(山ヶ野金山)

先日記事にした薩摩永野駅に関連するのですが、当駅から東側山手の方向かうとかつて金山が存在していました。今回はその金山の遺構について見ていこうと思います。

現在は鹿児島県伊佐市にある菱刈金山が国内唯一の金の採掘となっていますが、かつては新潟県の佐渡金山や北海道の鴻之舞金山はじめ、鹿児島県内でも串木野や今回紹介する永野(山ヶ野)でも金が産出されていました。

下の写真は薩摩永野駅から横川町方面を見たもの、見えてる山から金が産出されていたそうです。

薩摩永野駅より金山の方を臨む。山を越えると横川町につながる。

少し話は脱線しますがここでひとつクイズを。

鹿児島県内で最初に電気鉄道が開通したところはどこでしょうか?

普通に考えたら鹿児島市電かなと思われますが正解は違います。ヒントはこの橋梁跡です。

トロッコ鉄道の鉄橋跡。石積みの橋脚のみ残る。

鹿児島電気軌道(今の鹿児島市電になります)の武之橋〜谷山間が開業したのは1913年。
一方、この写真にあげた橋梁のあった鉄道(トロッコ列車)の電化は1909年になるので、こちらの鉄道の方が電化された時期は早かったことになります。
ではこの鉄道は何の為にあったのか?
というと、写真右手(山手)に永野金山があり金山の入り口が、左手山の麓には精錬所がありました。
1907年、坑から精錬所まで鉄道が敷かれ最初は馬で車両を引いていたそうですが、1909年設備の近代化により電化が進むとポール式の電車が使われるようになりました。

下の写真はトロッコ遺構の案内板です。

トロッコ遺構の立て看板

ここからは永野金山本体の歴史について。下の写真は坑道への入り口になります。

坑道への入り口。今はしっかりと塞がれている。
坑道の名は胡麻目坑。島津家の家紋丸に十の字が掘られている。

トンネルの上に「胡麻目坑」の文字と島津家の家紋である丸に十の字が彫られています。

この鉱山は1640年に内山与右衛門により発見され、翌1641年に江戸幕府に報告、1642年より採掘開始されました。最初は露天掘り(金鉱石が地表に散乱している状態)でしたが、後に地面を深く掘る方法に変わりました。一時は佐渡金山に匹敵する産出量を誇ったそうです。詳しくはこちらのリンクを参考にしてください。
坑夫さんたちや精錬所で働く人達がいたため、近くに大きな集落ができたことは想像できます。
(先日投稿した国鉄宮之城線がわざわざ薩摩永野駅でスイッチバック構造をとる形をとった1つの要因でもあったらしい)
幕末〜明治期にはフランスから技師を招き、施設の近代化をはかるため水力(水力発電所)や蒸気機関・施設の電化が進められたそうです。先ほどのトロッコ鉄道の電化もその一環と考えられます。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業となりました。

下2枚の写真は坑夫専用風呂場跡。
元々はなかったそうなのですが、坑夫たちがトジ金(自然金)を密売する事件が発覚、警察に検挙されると鉱山が操業できなくなり、失業者も増えて社会問題となりました。
会社との協議の結果、密売価格は月賦返納、帰るときに風呂に入っている間持ち物検査をすることで盗難を防いだそうです。

坑夫専用の風呂跡
坑夫専用風呂の中。坑夫たちが入浴しているあいだに弁当や持ち物の検査をし金の盗難を防いだ。
坑夫専用風呂ができた経緯

活気があった永野金山でしたが、1943年には太平洋戦争のため休山、戦後新たな鉱脈を探索したのですが新たな鉱脈は見つからず1965年に閉山となりました。

永野金山の年表は下の写真も参考にしてください。

永野金山の歴史年表

永野金山から場所は離れますが、姶良市加治木町にある龍門滝の上流域に金山橋という石橋があります。この橋は1879年頃に島津家が金鉱石や物資を加治木港に運ぶための道路にするため架けられたそうです。ということは隼人〜吉松駅間の肥薩線(当時は鹿児島本線)の開業が1903年になるので、鉄道よりも道路の方が先にできていたことになります。先日の投稿で大隅横川駅と薩摩永野駅を繋げなかったのは何でだろうかと思っていましたが、歴史的に調べていくと物資を運ぶ道路の方が先にできていたのでわざわざ鉄道で山越えてつなぐ必要はないということも考えられます。

姶良市加治木町にある金山橋。山ヶ野金山(永野金山)と関わりがある

薩摩永野駅

これまでの投稿では主に旅行系や海系、寺社仏閣たまにその他思った事を書いていましたが、

これから数記事ほどは廃線に関連したものをあげていこうかなとも思っています。

まずは国鉄宮之城線関連のところから。

宮之城線は鹿児島県の川内駅から薩摩大口駅までの66.1kmを結んでいた国鉄のローカル線でした。

国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線(いわゆる赤字ローカル線)に指定され1987年1月10日、国鉄民営化の直前に廃止となりました。

国鉄宮之城線路線図

今回は宮之城線の駅のなかで最も変わった構造をとっていた薩摩永野駅の遺構についてとりあげていきます。

現在当駅の駅舎は存在しないのですが、代わりに永野鉄道記念館という建物があり、改札や駅名標などが展示されています。

永野鉄道記念館 構内から
駅名標と改札口。駅名標よく見てください。

こう見ると普通の駅のようにみえるのですが、駅名標をよくみると路線の中間駅でありながら両隣の駅名が片側のみに書かれています。ここに当駅の特徴が現れています。

そう、その特徴は上にのせてある路線図の通りスイッチバック駅であることです。しかもこのスイッチバック構造はただ坂がきついから存在するというわけではなさそうだということが、後に載せる写真を見ていただければわかるかと思います。

追記、南薩線上日置駅もスイッチバック駅でした。こちらの記事も参考にしてください

左に進むと広橋・宮之城・川内方面、右に進むと針持・薩摩大口方面に向かう

この写真のアスファルトの所にレールが敷かれていました。左側に進むと宮之城・川内方面へ、右側に進むと薩摩大口方面に向かうことになります。見た感じでは坂があるけど急勾配のようには見えません。下に載せてある写真を見ると分かると思います。なお、現在道路沿いにはソメイヨシノの木が植えられており、桜の花が満開を迎える季節になるとものすごく見応えがある風景になるそうです。大口駅近くの忠元公園にも負けないかもしれません。タイミングが合えば是非とも撮りに行かなければ。

先程の場所から引いて撮ったもの、シーサースクロッシングと腕木式信号機が残されている

引きの写真で見ると二本の線路が直進と交差していた事がわかります。駅周辺の地理はすぐ下にある地図を参照してください。薩摩永野駅を飛ばして両隣の広橋、針持駅を直線で結んだ方が距離的には短くなるのですが、わざわざ当駅に立ち寄っているように線路は敷かれていました。それには理由がありました。

上の地図を拡大すると永野金山跡(近々記事にしようと思います)という史跡があります。そう、永野金山があり周りに大きな集落があったために当駅が作られたそうです。ちなみに、地図をもっと縮小してみると薩摩永野駅からさらに山を越えて肥薩線の大隅横川駅に接続することはできそうでした。が、当の永野金山が1965年に閉山したため、集落の人口は減ったのは容易に想像できます。列車の本数もそれほど多くはなく川内〜薩摩大口運用が7本くらい、川内〜宮之城、川内〜薩摩永野、針持〜薩摩大口など区間運用の列車が数本いたそうですが、各方面に向かうのに利便性が良かったのか?というと微妙だったみたいで1984年には第2次特定地方交通線として廃止承認、1987年1月10日宮之城線は全線廃止となりました。

以下の写真は永野鉄道記念館で展示されている鉄道設備、車両になります。

宮之城線各駅にあった駅名標
モーターカー
モーターカー、いわゆる作業車です

上2まいはモーターカー、保線作業するための機械扱いになります。

車掌車 ヨ8000形

車掌車ヨ8000形も置かれていました。車内は石炭ストーブ、垂れ流し式トイレ付きでした。

シーサスクロッシングと車掌車
腕木式信号機

この写真の山手の方にかつての永野金山が有りました。そのため周囲には大きな集落があったそうです。この山を越えるように線路を敷設すれば今の肥薩線大隅横川駅の近くに接続することも可能であったかと思われます。(霧島方面にいく近道となり、国分隼人、鹿児島市方面に鉄道でいくとなった場合ショートカットできたかも)別で触れますが、宮之城から鹿児島市へ向かうには(国鉄バス時代から)JRバスが1日数本入来峠越えで設定されています。

最後に薩摩永野駅跡は場所的に山奥というわけではないけど、なかなかわかりにくいところにあって現在は少し秘境感があるのですが、鹿児島空港からそんなに離れておらず1〜2時間置きに1本いる鹿児島空港はつ阿久根行きの空港バスで行くこともできます。スイッチバックの施設もいいのですが、桜の満開の季節を狙うのが一番いいのかなと思うところでした。

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