柊野

またもや地名クイズになります。

先日の宮之城線薩摩求名(さつまぐみょう)の読み方はなかなか難しい部類になりますが、タイトルにある「柊野」はなんと読むでしょうか?

普通は「ひいらぎの」、特にデザインやフォントを扱う人だと「ヒラギノ」なんて読んでしまいそう(ヒラギノ角ゴとか有名なフォントがあるため)ですが両方とも違います。

正解は「くきの」です。漢字の変換でも出にくい部類かもですね。

この地区で有名なものがあります。それは彼岸花。時期的に秋の彼岸に近いので彼岸花の画像を載せてみましょう。ただし、2021年は花を見ることはできるそうですが、ひがん花まつりは行われないそうです。

まずは柊野小学校跡の校舎と絡めて。

彼岸花と校舎

こちらは花のアップ。

こちらは花をアップに

白い花もありました。

白い花はあまり見かけない

道沿いに咲いています。

路肩に咲く

ちなみに彼岸花(ヒガンバナ)は曼珠沙華(マンジュシャゲ)とも呼ばれます。そう呼ばれる由縁はサンスクリット語で「赤い花」で「葉より先に咲く赤い花」を表す言葉からだといわれています。法華経序品で釈迦が「法華経」を説かれたことを祝って天から降ってきた花の1つとされており、「天上の花」という意味も持っています。(私は直接の世代でないのですが)『曼珠沙華』といえば山口百恵さんが歌っていたのが有名ですかね。

この地を訪れたのは昨年の今頃だったのですが、下の石碑が示すよう山と山の間にある小さな川を挟んだ谷というか山あいにあるため開墾は大変だったのだろうと想像できます。

中山屋敷の碑、江戸時代この地を開墾するのが非常に困難だったとうい証である

稲がたわわにみのっていました。

収穫前の稲穂と曼珠沙華

締めに集落の入り口から全景を入れてみました。

集落の入り口より、おかえりなさい わが ふるさと 柊野

宮之城駅

薩摩鶴田駅から宮之城方面には線路跡が車道に転用されています。この道路を走り続けると薩摩湯田駅、佐志駅跡を通過することができます。今回、両駅の写真がないので簡単な説明になります。

薩摩湯田駅は旧宮之城町と旧鶴田町との境界に近いところまたは宮之城温泉の最寄駅(温泉街まで1Kmくらい)と言ってもいいかもしれません。駅跡の記念碑と車輪が置いてあるそうですが気づかなかったです。

佐志駅跡は比較的わかりやすい所にあります。国道504号の田原交差点の地区になり、駅舎自体は元々なくプラットホームと駅名標の形をした案内板が設置されています。

ここからは宮之城線の線名にもなっている宮之城駅について。宮之城駅は1926年開業、最初は当駅が終点でしたが1934年薩摩鶴田駅が開業した後は途中駅となりました。1937年、薩摩大口駅まで全通しました。しかしながら利用客の減少により1987年廃止となりました。こちらのページも参考にしてください。

宮之城線ではガソリンカーの使用や(機関車ではなく)気動車が貨車を引っ張る混合列車の運用があったそうです。「宮之城線 混合列車」で画素を検索すれば出てくるようです。

宮之城鉄道記念館

上の写真は宮之城駅跡にできた記念館の建物です。時間の都合により建物内には入らなかったのですが観光案内所、バスのターミナルなどになっているそうです。駅廃止後も入来、鹿児島市や大口、出水、空港、川内方面など各方面に向かうバスの発着場となっており交通の要所となっています。また、温泉(宮之城温泉や紫尾温泉)や竹も有名ですが、個人的にはお菓子屋さんも多いなとも思いました。

鉄道設備の跡

こちらは駅跡に残された鉄道設備になります。腕木式信号機やてこ、踏切、蒸気機関車C57の頭部が保存されています。

宮之城線の駅には他にも樋脇、上樋脇、入来駅など駅跡が残っている所もあるのでいずれ訪ねてみたいと思っています。記録が撮れたらまた載せる予定です。とりあえず宮之城線跡巡り(第1部)はここまで。

薩摩鶴田

宮之城線駅跡を巡る、第3弾は薩摩鶴田駅を訪れてみました。

この駅、実は見つけづらい所にあります。

というのは、薩摩求名駅と違い国道267号線沿いにあると思いきや「鶴田駅入口」というバス停は国道沿いに現存するものの、実際に駅があった所は国道から500mほど奥地(というか西側)の住宅地の中にあるためです。また、地図を縮小して見ればわかると思いますが役場など主要施設のある町並みから離れていることも場所的にわかりにくくなっているかもしれません。これが宮之城線乗客減少の原因のひとつだったのかもしれません。

写真の建物が鶴田鉄道記念館になります。周囲が住宅地になっているので、この建物が集会所じゃないかと勘違いして入るのはためらいましたが、表には車輪と踏切の部品、レール、バラスト、プラットホームらしきものがあり、確かにここに駅があったのだなという軌跡はなんとなくわかります。

鶴田鉄道記念館と車輪
薩摩鶴田駅ホーム跡

こうみるとホームの長さも現役時から短かったのではないかと推察されます。最初からローカル線の駅として作られた駅のホームの長さは列車2両分がデフォルトで見かけるため。山野線の駅や指宿枕崎線末端区間のホーム長も2両分のところが多いです。

ちなみに鶴田町には鶴田ダムという九州最大級のダムがありますが、ダム建設用資材を運ぶための輸送時に当駅は活躍したそうです。

薩摩鶴田駅を無事見つけることができれば、宮之城方面、薩摩山崎駅跡ぐらいまでは線路跡が道路に転用されており、線路跡を車で走ることができるようです。

薩摩求名

さて問題です。この駅名は何と読むでしょうか?

正解は「さつまぐみょう」です。

国鉄宮之城線にあった駅の一つですが、いわゆる難読地名に分類されるでしょう。(参考に千葉県東金市にある求名駅、ここも”ぐみょう”と読みますが難読駅名でよく取り上げられます。徳川家康が鷹狩りに来た際ここは何という所かと聞いた際、家来が「求名と申します」と言ったためにこの名前になったと伝えられています。)

薩摩永野駅において薩摩求名駅の駅名標

求名という言葉自体は仏教(法華経)の登場する人名で、仏の入滅後、妙高菩薩の八百人の弟子の中の一人。名声だけを求めお経をどんなに読んでも覚えられませんでしたが、多くの善根を植えたために多くの仏に会うことができたそうで、後に弥勒(みろく)菩薩となったそうです。ちなみに”みろく”という地名は姶良市加治木町の国道10号線の交差点の名前になったり、弥勒さんという苗字の人も鹿児島県内にいることは確認済みです。(話逸れますが、鹿児島市内に”もびくに坂”というバス停があり昔は大きなお寺があったそうです。)また、さつま町内(薩摩永野駅〜広橋駅)の中間あたりには観音滝公園というのもあるそうです。ただし、東金市の求名と違って、ここの(薩摩)求名の地名の由来についてはよく分かっておりません。

下の写真は薩摩求名駅があったと思われるところで撮ったものです。広橋(旧薩摩町の中心地)方面への線路跡は緑のトンネル状態となっており、中に進むのは躊躇しました。

広橋方面への線路跡か

一方、こちらの写真のあたりに駅があったのではなかろうかと思います。橋の欄干には機関車の動輪が描かれています。また、真ん中に見えるアーチ式の石橋は求名橋と呼ばれており明治37年に掛けられたそうです。

この付近に薩摩求名駅があったと思われるところ。中央に見える橋は求名橋。

当駅跡には鉄道施設や記念館などは残っていませんが、集会施設と線路跡は道路に転用されて微かに痕跡がわかる程度でした。参考に地図を載せておきます。求名駅のバス停があったと思います。

永野金山(山ヶ野金山)

先日記事にした薩摩永野駅に関連するのですが、当駅から東側山手の方向かうとかつて金山が存在していました。今回はその金山の遺構について見ていこうと思います。

現在は鹿児島県伊佐市にある菱刈金山が国内唯一の金の採掘となっていますが、かつては新潟県の佐渡金山や北海道の鴻之舞金山はじめ、鹿児島県内でも串木野や今回紹介する永野(山ヶ野)でも金が産出されていました。

下の写真は薩摩永野駅から横川町方面を見たもの、見えてる山から金が産出されていたそうです。

薩摩永野駅より金山の方を臨む。山を越えると横川町につながる。

少し話は脱線しますがここでひとつクイズを。

鹿児島県内で最初に電気鉄道が開通したところはどこでしょうか?

普通に考えたら鹿児島市電かなと思われますが正解は違います。ヒントはこの橋梁跡です。

トロッコ鉄道の鉄橋跡。石積みの橋脚のみ残る。

鹿児島電気軌道(今の鹿児島市電になります)の武之橋〜谷山間が開業したのは1913年。
一方、この写真にあげた橋梁のあった鉄道(トロッコ列車)の電化は1909年になるので、こちらの鉄道の方が電化された時期は早かったことになります。
ではこの鉄道は何の為にあったのか?
というと、写真右手(山手)に永野金山があり金山の入り口が、左手山の麓には精錬所がありました。
1907年、坑から精錬所まで鉄道が敷かれ最初は馬で車両を引いていたそうですが、1909年設備の近代化により電化が進むとポール式の電車が使われるようになりました。

下の写真はトロッコ遺構の案内板です。

トロッコ遺構の立て看板

ここからは永野金山本体の歴史について。下の写真は坑道への入り口になります。

坑道への入り口。今はしっかりと塞がれている。
坑道の名は胡麻目坑。島津家の家紋丸に十の字が掘られている。

トンネルの上に「胡麻目坑」の文字と島津家の家紋である丸に十の字が彫られています。

この鉱山は1640年に内山与右衛門により発見され、翌1641年に江戸幕府に報告、1642年より採掘開始されました。最初は露天掘り(金鉱石が地表に散乱している状態)でしたが、後に地面を深く掘る方法に変わりました。一時は佐渡金山に匹敵する産出量を誇ったそうです。詳しくはこちらのリンクを参考にしてください。
坑夫さんたちや精錬所で働く人達がいたため、近くに大きな集落ができたことは想像できます。
(先日投稿した国鉄宮之城線がわざわざ薩摩永野駅でスイッチバック構造をとる形をとった1つの要因でもあったらしい)
幕末〜明治期にはフランスから技師を招き、施設の近代化をはかるため水力(水力発電所)や蒸気機関・施設の電化が進められたそうです。先ほどのトロッコ鉄道の電化もその一環と考えられます。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業となりました。

下2枚の写真は坑夫専用風呂場跡。
元々はなかったそうなのですが、坑夫たちがトジ金(自然金)を密売する事件が発覚、警察に検挙されると鉱山が操業できなくなり、失業者も増えて社会問題となりました。
会社との協議の結果、密売価格は月賦返納、帰るときに風呂に入っている間持ち物検査をすることで盗難を防いだそうです。

坑夫専用の風呂跡
坑夫専用風呂の中。坑夫たちが入浴しているあいだに弁当や持ち物の検査をし金の盗難を防いだ。
坑夫専用風呂ができた経緯

活気があった永野金山でしたが、1943年には太平洋戦争のため休山、戦後新たな鉱脈を探索したのですが新たな鉱脈は見つからず1965年に閉山となりました。

永野金山の年表は下の写真も参考にしてください。

永野金山の歴史年表

永野金山から場所は離れますが、姶良市加治木町にある龍門滝の上流域に金山橋という石橋があります。この橋は1879年頃に島津家が金鉱石や物資を加治木港に運ぶための道路にするため架けられたそうです。ということは隼人〜吉松駅間の肥薩線(当時は鹿児島本線)の開業が1903年になるので、鉄道よりも道路の方が先にできていたことになります。先日の投稿で大隅横川駅と薩摩永野駅を繋げなかったのは何でだろうかと思っていましたが、歴史的に調べていくと物資を運ぶ道路の方が先にできていたのでわざわざ鉄道で山越えてつなぐ必要はないということも考えられます。

姶良市加治木町にある金山橋。山ヶ野金山(永野金山)と関わりがある
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