薩摩求名

さて問題です。この駅名は何と読むでしょうか?

正解は「さつまぐみょう」です。

国鉄宮之城線にあった駅の一つですが、いわゆる難読地名に分類されるでしょう。(参考に千葉県東金市にある求名駅、ここも”ぐみょう”と読みますが難読駅名でよく取り上げられます。徳川家康が鷹狩りに来た際ここは何という所かと聞いた際、家来が「求名と申します」と言ったためにこの名前になったと伝えられています。)

薩摩永野駅において薩摩求名駅の駅名標

求名という言葉自体は仏教(法華経)の登場する人名で、仏の入滅後、妙高菩薩の八百人の弟子の中の一人。名声だけを求めお経をどんなに読んでも覚えられませんでしたが、多くの善根を植えたために多くの仏に会うことができたそうで、後に弥勒(みろく)菩薩となったそうです。ちなみに”みろく”という地名は姶良市加治木町の国道10号線の交差点の名前になったり、弥勒さんという苗字の人も鹿児島県内にいることは確認済みです。(話逸れますが、鹿児島市内に”もびくに坂”というバス停があり昔は大きなお寺があったそうです。)また、さつま町内(薩摩永野駅〜広橋駅)の中間あたりには観音滝公園というのもあるそうです。ただし、東金市の求名と違って、ここの(薩摩)求名の地名の由来についてはよく分かっておりません。

下の写真は薩摩求名駅があったと思われるところで撮ったものです。広橋(旧薩摩町の中心地)方面への線路跡は緑のトンネル状態となっており、中に進むのは躊躇しました。

広橋方面への線路跡か

一方、こちらの写真のあたりに駅があったのではなかろうかと思います。橋の欄干には機関車の動輪が描かれています。また、真ん中に見えるアーチ式の石橋は求名橋と呼ばれており明治37年に掛けられたそうです。

この付近に薩摩求名駅があったと思われるところ。中央に見える橋は求名橋。

当駅跡には鉄道施設や記念館などは残っていませんが、集会施設と線路跡は道路に転用されて微かに痕跡がわかる程度でした。参考に地図を載せておきます。求名駅のバス停があったと思います。

永野金山(山ヶ野金山)

先日記事にした薩摩永野駅に関連するのですが、当駅から東側山手の方向かうとかつて金山が存在していました。今回はその金山の遺構について見ていこうと思います。

現在は鹿児島県伊佐市にある菱刈金山が国内唯一の金の採掘となっていますが、かつては新潟県の佐渡金山や北海道の鴻之舞金山はじめ、鹿児島県内でも串木野や今回紹介する永野(山ヶ野)でも金が産出されていました。

下の写真は薩摩永野駅から横川町方面を見たもの、見えてる山から金が産出されていたそうです。

薩摩永野駅より金山の方を臨む。山を越えると横川町につながる。

少し話は脱線しますがここでひとつクイズを。

鹿児島県内で最初に電気鉄道が開通したところはどこでしょうか?

普通に考えたら鹿児島市電かなと思われますが正解は違います。ヒントはこの橋梁跡です。

トロッコ鉄道の鉄橋跡。石積みの橋脚のみ残る。

鹿児島電気軌道(今の鹿児島市電になります)の武之橋〜谷山間が開業したのは1913年。
一方、この写真にあげた橋梁のあった鉄道(トロッコ列車)の電化は1909年になるので、こちらの鉄道の方が電化された時期は早かったことになります。
ではこの鉄道は何の為にあったのか?
というと、写真右手(山手)に永野金山があり金山の入り口が、左手山の麓には精錬所がありました。
1907年、坑から精錬所まで鉄道が敷かれ最初は馬で車両を引いていたそうですが、1909年設備の近代化により電化が進むとポール式の電車が使われるようになりました。

下の写真はトロッコ遺構の案内板です。

トロッコ遺構の立て看板

ここからは永野金山本体の歴史について。下の写真は坑道への入り口になります。

坑道への入り口。今はしっかりと塞がれている。
坑道の名は胡麻目坑。島津家の家紋丸に十の字が掘られている。

トンネルの上に「胡麻目坑」の文字と島津家の家紋である丸に十の字が彫られています。

この鉱山は1640年に内山与右衛門により発見され、翌1641年に江戸幕府に報告、1642年より採掘開始されました。最初は露天掘り(金鉱石が地表に散乱している状態)でしたが、後に地面を深く掘る方法に変わりました。一時は佐渡金山に匹敵する産出量を誇ったそうです。詳しくはこちらのリンクを参考にしてください。
坑夫さんたちや精錬所で働く人達がいたため、近くに大きな集落ができたことは想像できます。
(先日投稿した国鉄宮之城線がわざわざ薩摩永野駅でスイッチバック構造をとる形をとった1つの要因でもあったらしい)
幕末〜明治期にはフランスから技師を招き、施設の近代化をはかるため水力(水力発電所)や蒸気機関・施設の電化が進められたそうです。先ほどのトロッコ鉄道の電化もその一環と考えられます。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業となりました。

下2枚の写真は坑夫専用風呂場跡。
元々はなかったそうなのですが、坑夫たちがトジ金(自然金)を密売する事件が発覚、警察に検挙されると鉱山が操業できなくなり、失業者も増えて社会問題となりました。
会社との協議の結果、密売価格は月賦返納、帰るときに風呂に入っている間持ち物検査をすることで盗難を防いだそうです。

坑夫専用の風呂跡
坑夫専用風呂の中。坑夫たちが入浴しているあいだに弁当や持ち物の検査をし金の盗難を防いだ。
坑夫専用風呂ができた経緯

活気があった永野金山でしたが、1943年には太平洋戦争のため休山、戦後新たな鉱脈を探索したのですが新たな鉱脈は見つからず1965年に閉山となりました。

永野金山の年表は下の写真も参考にしてください。

永野金山の歴史年表

永野金山から場所は離れますが、姶良市加治木町にある龍門滝の上流域に金山橋という石橋があります。この橋は1879年頃に島津家が金鉱石や物資を加治木港に運ぶための道路にするため架けられたそうです。ということは隼人〜吉松駅間の肥薩線(当時は鹿児島本線)の開業が1903年になるので、鉄道よりも道路の方が先にできていたことになります。先日の投稿で大隅横川駅と薩摩永野駅を繋げなかったのは何でだろうかと思っていましたが、歴史的に調べていくと物資を運ぶ道路の方が先にできていたのでわざわざ鉄道で山越えてつなぐ必要はないということも考えられます。

姶良市加治木町にある金山橋。山ヶ野金山(永野金山)と関わりがある

薩摩永野駅

これまでの投稿では主に旅行系や海系、寺社仏閣たまにその他思った事を書いていましたが、

これから数記事ほどは廃線に関連したものをあげていこうかなとも思っています。

まずは国鉄宮之城線関連のところから。

宮之城線は鹿児島県の川内駅から薩摩大口駅までの66.1kmを結んでいた国鉄のローカル線でした。

国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線(いわゆる赤字ローカル線)に指定され1987年1月10日、国鉄民営化の直前に廃止となりました。

国鉄宮之城線路線図

今回は宮之城線の駅のなかで最も変わった構造をとっていた薩摩永野駅の遺構についてとりあげていきます。

現在当駅の駅舎は存在しないのですが、代わりに永野鉄道記念館という建物があり、改札や駅名標などが展示されています。

永野鉄道記念館 構内から
駅名標と改札口。駅名標よく見てください。

こう見ると普通の駅のようにみえるのですが、駅名標をよくみると路線の中間駅でありながら両隣の駅名が片側のみに書かれています。ここに当駅の特徴が現れています。

そう、その特徴は上にのせてある路線図の通りスイッチバック駅であることです。しかもこのスイッチバック構造はただ坂がきついから存在するというわけではなさそうだということが、後に載せる写真を見ていただければわかるかと思います。

追記、南薩線上日置駅もスイッチバック駅でした。こちらの記事も参考にしてください

左に進むと広橋・宮之城・川内方面、右に進むと針持・薩摩大口方面に向かう

この写真のアスファルトの所にレールが敷かれていました。左側に進むと宮之城・川内方面へ、右側に進むと薩摩大口方面に向かうことになります。見た感じでは坂があるけど急勾配のようには見えません。下に載せてある写真を見ると分かると思います。なお、現在道路沿いにはソメイヨシノの木が植えられており、桜の花が満開を迎える季節になるとものすごく見応えがある風景になるそうです。大口駅近くの忠元公園にも負けないかもしれません。タイミングが合えば是非とも撮りに行かなければ。

先程の場所から引いて撮ったもの、シーサースクロッシングと腕木式信号機が残されている

引きの写真で見ると二本の線路が直進と交差していた事がわかります。駅周辺の地理はすぐ下にある地図を参照してください。薩摩永野駅を飛ばして両隣の広橋、針持駅を直線で結んだ方が距離的には短くなるのですが、わざわざ当駅に立ち寄っているように線路は敷かれていました。それには理由がありました。

上の地図を拡大すると永野金山跡(近々記事にしようと思います)という史跡があります。そう、永野金山があり周りに大きな集落があったために当駅が作られたそうです。ちなみに、地図をもっと縮小してみると薩摩永野駅からさらに山を越えて肥薩線の大隅横川駅に接続することはできそうでした。が、当の永野金山が1965年に閉山したため、集落の人口は減ったのは容易に想像できます。列車の本数もそれほど多くはなく川内〜薩摩大口運用が7本くらい、川内〜宮之城、川内〜薩摩永野、針持〜薩摩大口など区間運用の列車が数本いたそうですが、各方面に向かうのに利便性が良かったのか?というと微妙だったみたいで1984年には第2次特定地方交通線として廃止承認、1987年1月10日宮之城線は全線廃止となりました。

以下の写真は永野鉄道記念館で展示されている鉄道設備、車両になります。

宮之城線各駅にあった駅名標
モーターカー
モーターカー、いわゆる作業車です

上2まいはモーターカー、保線作業するための機械扱いになります。

車掌車 ヨ8000形

車掌車ヨ8000形も置かれていました。車内は石炭ストーブ、垂れ流し式トイレ付きでした。

シーサスクロッシングと車掌車
腕木式信号機

この写真の山手の方にかつての永野金山が有りました。そのため周囲には大きな集落があったそうです。この山を越えるように線路を敷設すれば今の肥薩線大隅横川駅の近くに接続することも可能であったかと思われます。(霧島方面にいく近道となり、国分隼人、鹿児島市方面に鉄道でいくとなった場合ショートカットできたかも)別で触れますが、宮之城から鹿児島市へ向かうには(国鉄バス時代から)JRバスが1日数本入来峠越えで設定されています。

最後に薩摩永野駅跡は場所的に山奥というわけではないけど、なかなかわかりにくいところにあって現在は少し秘境感があるのですが、鹿児島空港からそんなに離れておらず1〜2時間置きに1本いる鹿児島空港はつ阿久根行きの空港バスで行くこともできます。スイッチバックの施設もいいのですが、桜の満開の季節を狙うのが一番いいのかなと思うところでした。

終戦から70年。

今年で戦後76年になります。
ただ、世界的に新たに立ち向かわないといけない困難があるのは事実です。

A Gut Feeling 5th edition

本日をもって太平洋戦争の終戦から70年目を迎えた。

私自身はもちろん、親の世代も戦後生まれになるけど、

祖父母は戦争に巻き込まれていたことになる。

実際、私の父方の祖父は長崎(浦上)の軍需工場に動員されており、

8月9日には原子爆弾の被害に遭い、足や心臓などに影響が出ていた。(原爆手帳ももっていました)

写真は長崎の平和公園近くにある爆心地にて。今年も縁あって長崎を訪れることができた。

長崎の、爆心地。
長崎の爆心地。

長崎の爆心地。
長崎の爆心地。上空を見上げる。

参考に、昔長崎を訪ねた記録の記事はこちらをクリックしてください。

8年前の今日、8月15日には広島も訪ねました。

こちらの記事も参考にしてみてください。

CA390034
広島の爆心地。

長崎、広島の両原爆資料館もみてきたけれど、

現在の町並みからは想像できない地獄絵図であったのは容易に想像できるし、

身内が現場にいたのもあり身の毛がよだってしまった。

CA390046
広島の爆心地。

次に、母方の方をみていくと母親自体の出生に不明な点が出てくる。

正確に言うと、私の母親の本当の父親がわからないのである。

戸籍上、母親の兄貴の父親は確定するものの、

その方はフィリピンのルソン島で昭和20年6月15日に戦死している。

戸籍上私の母親が生まれたのは昭和23年なので、つじつまが合わないので謎。

フィリピンではもう一名レイテ島で戦死した記録もある。

写真は指宿市開聞町にある、花瀬望比公園

ここから太平洋戦争で激戦地となったフィリピンことを想う。

指宿市の花瀬望比公園にて
開聞岳の麓にある花瀬望比公園にて。

その翌々日、6月17日には鹿児島大空襲でも身内に犠牲者が出ていた。

先の戦争から70年は経ったものの、

身近なものからまだまだ戦争の記録は引き出される。

遺構もだけど、我が家のルーツを調べていくにあたって、

報道だけでなく、意外と戸籍に戦争の記録が残っているものです。

最後に、今の日本は本当に戦後なのでしょうか?

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桜島(城山から)

山の日はとっくに過ぎたのですが、山の画像をアップしたい気持ちに駆られまして(笑)

城山展望台からの眺め

鹿児島市民にとって(まはた観光スポットとして)はすごい定番である城山の展望台から見える桜島と鹿児島市街地の構図です。

今月に入り台風が接近したり秋雨前線の影響で長雨となりなかなか晴天となる日がないので、写真自体は5月に撮ったものになります。

そういえば、城山の展望台でよく見かけるシチュエーション。桜島を背景にして人物写真を撮りたい。けど、これが簡単そうに見えて意外と難しいのです。

城山の展望台は木陰になりますので、桜島を背景に人物を撮りたい、記念写真を撮りたい場合は必ずカメラに付いているフラッシュを炊くことをおすすめいたします。炊かないと背景はきれいに写っていても人物は真っ暗になってしまって誰が誰だかよくわからなくなるからです。今は事情(あの病気等)により海外、県外はおろか県内、同じ市内でも外出するのは躊躇してしまうので、今後もし鹿児島市の城山展望台に来て写真を撮りたくなったら参考にしてください。

こちらは画角をもっと広めにしたものです

ちなみに、山の麓には鹿児島城(鶴丸城)がありましたが他の城と違い天守閣がなかったそうです。
江戸幕府に恭順するためだとか言われていますが、現在地(城山の展望台あたり)見張りがいれば外からやってくる船舶は一発で見つかるでしょうね。

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